↑前回のブログ記事 狭山園のルーツがここに?! 知ってる?狭山茶のこと②
戦国時代・・・無量寿寺と慈光寺の焼き討ち
中世の茶は仏教の儀式や修行に使うため、主に寺院で生産されていました。そこで作られる茶は僧侶や貴族、武士など一部の上流階級しか飲むことができないほど高級な飲み物でした。中世に武蔵国の銘茶として、無量寿寺と慈光でそれぞれ作られていた「河越茶」と「慈光茶」は戦国時代に新たにこの地域に勢力を拡大していた後北条氏(小田原北条氏)によって寺ごと焼き討ちにされてしまいます。
江戸時代・・・「煎茶」が江戸庶民の人気ドリンクに!
江戸時代の初め頃、中国(明)から来日した黄檗宗の僧・隠元は明で飲まれていた「釜炒り煎茶」を日本に広めました。このお茶は釜で炒った茶ばをもんで乾かして作ります。江戸時代の中頃、京都府宇治田原町の永谷宗円(あの永谷園の)は、抹茶を製造する際の「蒸す」工程と、釜炒り煎茶製造の「もんで乾かす」行程をミックスさせ、蒸して+もんで+乾かす「蒸し製煎茶」という日本独自の新しい茶製法を作り出します。この製法は「宇治製法」と呼ばれ、1750年代ころから江戸庶民へも広がって行きました。
↓川越市のお茶屋さんでいただいた すすり煎茶